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地球は暴走温室効果の瀬戸際

地球は暴走温室効果の瀬戸際

六章 新文明における教育論


六章 新文明における教育論
人の心の荒廃をこのまま放置してはならない。

現在の都市に生きる人々は心にその豊かさを与えた自然との繋がりを失い、そして人に人の温もりを与える人と人の繋がりも失い孤立し冷淡になり、都市に住む大部分の人々は自己本意な考えしか出来なくなっている。そして人々は孤独になりその心を病み荒廃し潤いを失い砂漠の様にその心は限りなく無機的なものになりつつある。

現在の日本やアメリカ等の先進国の教育現場は混乱を深めつつある、そして私達の未来を担う子供達の教育の社会環境はさらに混乱を極め、人々とその子供達に神も仏も有るものか、この地球がどうなったって俺の知った事ではない。お金さえ有れば何とかなると言う、開き直った自己本意な考えと、その心と社会と自然の荒廃を助長するための、教育をしているとしか考えられない。

現在のアメリカやその他の先進国もそして開発途上国の都市も、治安が極度に悪化してきており、特にアメリカにおける犯罪の発生率は、日本の都市の百倍以上にもなっている。都市も人々の心も荒廃し麻薬等の蔓延と終末的な病のエイズの流行や、あるいは強盗や殺人といった様々な犯罪で溢れ、犯罪者を収容する施設さえ足りなくなって来ている。そのために軽い犯罪者などは直ぐに釈放され、それがまた犯罪を繰り返すというような悪循環に陥っている。

日本では国民全体が保守的で、伝統的な価値観もまだ不十分ながら機能している。そして警察力に対する信頼も有り、そして凶器や銃器に対する取り締まりが厳しく、そのために犯罪自体が低く押さえられている。不法滞在外国人による犯罪の増加や銃器等を使った凶悪犯罪の増加が目立っているが、我が国でも銃器が不法なルートで市民の間に広がりつつあり銃器を使った犯罪が増加ている。青少年の凶悪犯罪の増加は我が国だけに限ったものではないが、人々の価値観の崩壊が青少年の心にに大きく影響し、それがそれが衝動的で即物的な行動に駆り立てている。

都市に住む人々の心の荒廃は、世界共通の現象であり、日本の都市おける現象が内攻化し、心身症や自殺という行為となって表面化しているのに対して、欧米ではそれが外向化し、犯罪となって表面化しているとも言えるだろう。自殺が自己に対する犯罪であるとするなら、アメリカで起きている現象と同じ質の現象が、この日本でも起き始めているのではないでしょうか。

これら世界の都市における犯罪の激増や、あるいは自殺といったような問題は人々の心が安らぐ場所もなく、いかに孤立し荒廃しているかを如実に表している。それらの人々の叫び声が、自殺やあるいは麻薬そして様々な犯罪となって、表面化しているのではないでしょうかか。

数年前に校内暴力やあるいは陰惨ないじめ等になどの問題が相次いで発生し、多数の犠牲者さえも出した事はまだ我々の記憶にある事です。教育現場の荒廃が叫ばれるようになってすでに久しいが、もはや人間における最低の約束事すら、現在の子供達から失われるほどに、子供達の心の荒廃が進んでいるとしか思えないのです。ただ知識のみによる大学受験制度と神をも恐れぬ即物的で自己中心的な行動しかできない。それらの歪んだ価値観のもたらす社会の歪みは社会の全体にまでその影響を広げて、大人も子供達の心も蝕み荒廃させ、それが家族の間の最低限の信頼と、約束事をも失わせる程に進んでいるとも思わせる事です。

そして、その一方で日本の大新聞社の評論や、進歩的な知識人と言われる、知的エリートがこの事件を評して偏差値教育の弊害だとか、あるいは受検競争の犠牲者だとか、教育が悪い社会が悪いとしか言う事が出来ない。これらの知識人こそが戦後からいっかんして、マスコミと教育現場を牛耳り、偏向した宣伝と教育活動によってまず親の世代は戦後の価値観を破壊し教育現場を混乱を助長させたのにそれ自身への反省の言葉は聞いた事が無い。そのため子供達の親の世代は昔から伝えられてきた東洋的な伝統的精神とそして社会的な知恵を失ってしまい、ただ親の見栄の為の、受験指向と拝金主義そして、自己中心的な価値観しか持つ事が出来ず、子供の精神の成長に不可欠な精神的な栄養を与える事が出来ない。

そして教育における本来の意味も精神を忘れ、子供達の心を形成するための栄養を与える事が出来ず、無責任にも全人格的な教育まで学校に押し付けようとしている。しかし学校における教育を司る、文部官僚も学校の教師も、現在の時代に相応したその根幹となる精神を持たない。

そして欧米の物真似の表面的で底の浅い、精神の伴わない自由と民主主義あるいは人道主義の精神しか与える事が出来ず、子供達は必然的に即物的で自己中心的な考え方しか出来なくなる。そこに戦後の教育の歪みが凝縮されている事は、言うまでもないだろう。私自身は戦前の教育勅語など知らないし、それが良いとか悪いとかの評価をする事は出来ない。しかし本来不変なものであるべき教育の根本精神であるる、その教育勅語を少数の人間の都合の良いように利用して国民を洗脳し、勝ち目の無い戦争へと引き込み、そして数千万人の命を奪う事になったのも、真の意味での歴史観と教養を持たない軍部を中心とした三流のエリート層だったのは間違いないだろう。

そして敗戦と共にあの教育勅語が悪いとばかりに、本来捨てるべきでもない伝統的な精神まで全てを放棄し、民主主義のその表面だけを我国に持ち込み、現在の教育を荒廃させ、人々の心を荒廃させているのも、定見を持たない文部官僚や保守及び革新陣営の政治家等の三流のエリート群、そして進歩的と称する一部の知的エリート層である。

海外の教科書事情に詳しい福井工大の森本教授によると、現在世界の国で道徳教育がこれほどなおざりになっているのは日本だけだと言っている。道徳を教えようにも教える道徳の根本精神を、教師も親も文部官僚も持っていないし。現在の日本の教育現場では父母の恩等を教えると、日教組系の教師から保守反動のレッテルを貼られ、学内で孤立しに吊し上げられると言う。この吊し上げをしている人間も、その彼等が忌み嫌う戦前の軍部の、三流のエリートと同じ様な、思考の形態をしている事に気付いているだろうか。国民が進むべき方向を常に誤らすのは戦前も戦後の現代も変わらない。右翼や左翼と言ったセクトを問わず、底の浅い三流の知識人エリートなのだ。

我が国の言論や教育を支配するそれら知識人の拠り所となり現代文明を築いた近代合理主義は、デカルトとニュートンによって完成された。そしてダウィンやマルクスによって、その価値観は生命や経済にまで広められたのだが。これらの絶対と考えられた此等の価値観も、一九三0年代すでに量子力学等の物理学における世界観や、現在の新しい生命観では、完全なものではない事が証明されている。

これらの時代遅れの価値観や行動理念が最も残しているのが我が国の知的エリート層である。その時代遅れの論理と教条を振りかざし、我国の伝統的精神を破壊し、その知恵を葬り去り、教育界を混乱させ、子供達の心を荒廃させてきた。それが現代に至り人々の心の荒廃と様々な社会的な混乱となって表面化してきているのだ。

現在の日本における教育は、政治官僚機構そして教育者の団体等の、内部からの改革は、もう不可能である事を物語っており、革命でも起きないかぎりこの事態を改善する事は出来ないだろう。現在の日本で使用されている、日本を代表する知識人と称する人の書いた教科書には、被虐的な歴史観の上にで極端なまでの自己中心主義をすすめる部分もあり、それが戦後からずっと続いてきた現象である。彼等は現在のような社会の混乱の責任を取る、気概が有って時代遅れの教条を振りかざしその事を書いたのだろうか、そうでは無いだろう。エリート、知識人気取りの自惚れがそれを書かしているのだろう。私はこのような意味でも、我が国の言論と教育を支配するのエリート層に不信感を持たざるを得ない。

日本の知識人と称する人々は、伝統的に外国からの借り物の知識を、さも我がもののようにふりかざし、一かどの知識人を気取り日本の社会に害毒を流し続けてきた。戦前はそれによって国を滅ぼし、戦後はそれと違った型のエリートが、教育を混乱させ子供達の心を荒廃させて来た。それは人々と民族の心を荒廃させ、将来それは日本の社会を混乱させ滅ぼす事になるだろう。

アメリカ政府の高官が、日本人は滅び行く民族だといったのを、何かの本か新聞で見た事があるがその通りだろう。貿易不均衡での日米の官僚や政治家の対応しかたを見ても分かるとうり、小手先の解決策で対応しょうとするばかりで、彼等は何らの根本的な解決策を示す事が出来ない。彼等政治家もその下で働く官僚も戦前の教育制度の元でも、そして戦後から現在まで続く教育制度の元でも秀才であり、順調にその教育制度の上を通って来た人間が現在の政治や言論や教育を動かし、そして官僚組織を動かしているエリート層なのだが。彼等にこれから確実に起る思われる、地球的な規模のカタストロフと、民族の生存の危機を回避する、政策を実行する意志と能力そして勇気が果たして彼らに有るのだろうか。彼等にその時何かを期待するのはまず間違いだろう。彼等に任しておいたらエイズ薬害訴訟でみられたように自分の命さえ守れなくなる。あるいは戦争前と同じように民族的な破滅へと、連れて行かれるのは目に見えている。

都会生活のなかで人々は心の繋がりを失い離ればなれになりその心は荒廃してしまった。そして人々は孤独になり自己本意な考えしか出来なくなっている。また所属する集団のなかで、一人の人間として考え行動する自由を奪われ、社会は硬直しこれから数十年後に迎える、破局的な事態に対応出来なくなるだろう。民族の誇りを失い心を失った民族は滅びるしかない。

またそれは世界的な規模で進行中で、アメリカなどの先進国で特に著しく、この地球における、様々な形の環境の破壊はその根源をたどれば、それは私達の心そのものの混乱と荒廃に辿り着く。人間の心の荒廃と混乱を、このままに放って置くとするなら、人類の生存さえも危うくなる。

それを防ぐためには、還元主義な合理主義精神にかわる、新しい価値観による精神の復興が急がれる。それには教育の荒廃を正し、そして新しい教育大系を完成させると共に、全ての生命と共存する社会の、建設に着手しなければならない。


日本人の創造力
私たち日本人が働きすぎなのは、仕事が好きという人は本当は少数だと思う。働き中毒でもなんでもない。何かしてないと落ち着かないあるいは、人並みに働いていないと、皆と同じ事をしていないとと安心出来ない。自分一人が取り残され仲間外れになる、事への恐怖心からだ。よく子供の頃に見られる心理だ。ここには大人になっても、完全には自我の確立しない幼稚さと、本当の自己と向き会う事への恐怖がある。このような時こそ真実の自己の姿を知る、絶好の機会でもあるのだが。その恐怖心から、そして自分自身の虚しさから逃げようとする。そのような心の底で、落ち着かない空しさを抱えた人間が、自然発生的に集まって、仲良しグループ形成される。個人もまた集団に所属する事で、その自己の空しさを、一時的に覆い隠す事が出来るのである。その結果として同じような、人間ばかりが集まった集団が形成され、その中のボスを中心とした派閥が自然に発生し、派閥のボスだけか巾をきかし、集団のその他の構成員の、個性と自主性と創造力が削がれた、閉鎖的な集団となってしまう。このような事が私達日本人の間で、広く見られる現象だ。

実際に集団になった時に、異質な人間や弱い者への、横暴さ傲慢さと、陰湿ないじめや残酷さも、また目に余る。このような事はあらゆる、分野の集団で見られ、有能な者や集団の構成員とは、異質な者を排除しようとする。

ここに我々日本人の、底の浅さと幼稚さ心の貧困さを、余す事無く見ることが出来る。ここにも我々日本人が、世界の人々から軽蔑され除者にされ、学術的な業績の少なさや、ノーベル賞受賞者が少ない原因がそこにもあると思う。

それは集団の規制により、野心は否定的に見られ、また出る杭は打たれる諺にもあるように、出来る人間の足を引っ張られる。そのため構成員と違った事をする事を、好まない事もあるようだ。また我々日本人には、根源的なものへの問いかけが足りない。それは伝統的な、宗教的世界観の影響により、浅はかにもすぐに知ったつもりに、なってしまうからだ。その知ったつもりの東洋的精神が、我々自身の精神を腑抜けにしている。このように我々の心を閉じ込めたのはいわゆる(和をもって尊し)とする精神、もっと分かりやすく言うなら、仲間内さえ良ければそれで好いという事を教えた、儒教であり虚無思想である。自分自身をとるに足りない、存在だと考えるから何も出来ない。西洋人のように遮二無二自己主張を行い、使命感と感動の中に生きる人間が、歴史に残る大きな業績を残すのは当たり前の事だ。人間が持つ情念は決して否定されるべきものでは絶対にない。そのような情念が有るからこそ、現在の私達が生きておりそして現在の文明が有るのだ。


我々日本人自らが心の檻を開いて出なければ、真に創造的な民にはなれない。今やアメリカの知識人は東洋的な思想に於いても、我々をはるかに凌駕するものを持ちつつある。

いまや日本における、東洋的な精神など幻想になりつつある。それどころか時代遅れの西洋的な上純だけをまねた、知識人気取りの批判主義や経験主義といった合理主義の積極的な擁護者になっている。自分自身の心の幼稚さや底の浅さや貧困さを覆い隠したまま、西洋的なものを器用に真似たとしても、それが自分の身に付くはずがない。それは西洋的な精神とはおよそかけ離れた、自己満足的で醜悪な自己中心主義でしかない。このような人間がわが国のエリート呼ばれる人間の素顔で、表面ではにこやかに友好的に振る舞っていたとしても、裏に回れば、お互いに足の引っ張り合いをしているのが彼らの真実の姿だ。このような人間に私達の将来を託す事は出来る訳がない。

このような人間がが学者や研究者だったとしても、一流の業績を残せる筈がない。一流の学者そして研究者である、前に一流の人間でなくてはならないのだ。人間としての深さがなくては何事も中途半端で終わってしまう。幼稚で汚れた精神に何が出来ようか。我国にノーベル賞の受賞者が少ないのは当たり前の事なのだ。

もっともこのよう人間を選りすぐって集めるのが、現代の日本の教育制度の役目なのだが。我国の教育制度や家庭における教育環境は、人間としてこの地球に生きる生命として最も大事なものを、覆い隠し否定することに躍起になっている。

それを持っている事が、日本の社会や集団の中においては、恥ずかしく隠すべきだとされている。それこそが人間として真に必要なものだし、創造的な仕事をするうえで最も必要なものである事に気が付いていない。真の教育とはそれに、磨きをかけ助長するものでなくてはならない。教育とは真っ向から自分自身と向き会い、あるがままに自分を見つめる事が出来る人間として、育てるものでなくてはならない。

ただ知識を増やすだけでは決して、創造的な仕事をする事は出来ない。記憶力重視の現在の教育制度の元では、真に創造的な素質を持った、子供はたいてい落ち零れてしまう。そのような子供は画一的な教育制度に、馴染まない子供が多いからだ。日本ではそのような子供は大抵、仲間外れやいじめの標的にされている。

知能指数は明らかに記憶力比例するが、記憶力は創造力は比例する事はない。大体いま有るような方法で、人の真の能力と価値を指数化出来る訳がない。その計ることの出来ない人の能力を、無理矢理係数化し人を差別分類するために、現在の教育制度は存在しているとしか思えない。

人間らしい人間を生み出すための教育ではなく、ただ大学受験の為の教育しか行われていないのだ。親もそして子供も大学に入学し、一流の会社に入る事がその人生の全てになっているのだ。そんな彼等に創造的な仕事と、人生を期待するのは期待する方が誤っている。

現在の我国の教育制度の元では、創造的な素質を持ったこどもは、その素質を摩滅させられ型に填められ、規格化された人間として社会に送り出されて行く。まさに人間としてではなく、社会の一つの歯車、それも使い捨ての最低の部品としてだ。彼等が無責任で無感動で無気力、そして自己中心的な、思考しか出来ないのは当たり前の事なのだ。

人間らしい創造的で意義の有る、仕事をするうえで最も大事なものが、彼等の持っている特性の正反対のものだからだ。人間として最も大事なものを失わすのが、現在の日本における教育制度の役目なのだです。

それらも全て日本独自に生まれたものではなく、西洋の合理主義的そして還元主義的な価値観の元で生まれた、その考え方の上辺だけをそのまま日本に持ち込んで来ただけで、その根本となる精神そのものはなおざりにされている。

我々が創造的で世界の人々に、貢献する人間が出てくるとしたら、現在のような受験競争によって選び抜かれた、受験エリート人間によってではなく、そんな激しい競争のない自然でゆったりした、宗教的ともいえる人々と環境の中で、自分自身を研き続けてきた人間によって、為されるだろう。

そのような人間は、現在の教育制度によっては生まれる事はないだろう。現在の日本の教育制度が廃止され、生きる事と学ぶ事が一つになる社会が実現されるとき、それまで無理矢理に押さえ込まれていた、創造力が一気に開花して、全ての人間が創造的になり日本は世界に例の無い、新たなルネッサンス時代を迎える事になるだろう。人類は今此迄とは全く違った生き方と新しい価値観を必要としている。日本が新文明と新しい価値観の発信地となるだろう。

現在の社会の根幹となっている価値観と、その観元主義的な思考法は西洋社会で発展してきものであるが、現在の社会ではその西洋的な精神そのものが、現実の世界においては適合しない事が明らかになりつつある。私達が持つ古いイデオロギーや価値観、それらの全てが人間がこの地球で生きて行く上で、不十分なものである事が明らかになってきたのだ。自然はもとよりこの人間はそのような、単純な手法で理解することは不可能に近い。

西洋の合理主義的そして還元主義的な価値観の持つ、歪みが現在の世界と社会混乱させ、崩壊へと導いている事に気が付かねばならない。しかし日本のエリートといわれる人々は自分自身が馴れ親しみ、その虚構の上に存在している、自分とその価値観すら放棄することが出来ないでいるのだ。


究極の教育論その一

貴方が教師や人の子の親なら子供達から、新鮮な驚きや感動あるいは、戸惑い等を受けた事は一度や二度ではないでしょう。また貴方が子供の頃に擬問に感じた事を、親に質問して両親を戸惑わせた事も有ったはずです。子供達が初めて自然に接する態度は、詩的であり、そして極めて科学的です。子供達は生れ乍らにして、詩人であり科学者なのです。そして哲学者であり、芸術家でもあるのです。しかし子供達の成長と共に、それらの能力は摩滅され失われるのです。しかし人間の人生で何度か、それらの疑問が沸き起こり、あるいは幼い子供の頃の、あの感性を取り戻し、あるいはその答えを求め続けた人が、学者や知識人になり、あるいは芸術家や詩人や求道者になるのです。現在まで数千年にわたって、蓄積され続けてきた、全ての学問も芸術、もそして全ての宗教も、そして科学も文明も、礎はそこにあり、現在の教育における問題の全ては此処に集約されるのです。

 

子供達の心の成長は最初の驚くべき質問の洪水から始まる。私は誰なの?、なぜ生まれたの?、なぜ犬や猫が居るの?、なぜ草や木があるの?、どうして1+1が2になるの?。子供達の質問は驚くほどに本質的な質問が多い。

それに対してどれだけの親がこの問いの真実の答えを教えてあげられるだろうか。大抵の親が誤魔化しの答えか、うるさいと言って追い出すだけだろう。子供達は問う事で学ぶ、問う事で成長するのです。問う事を教える事、真の教育とは自己と全ての物に問い続ける、という姿勢について教える事ではないだろうか。

そして今この世に存在する事の意味を、その歓喜びを教えるべきではないか。人間は知る事は喜びであり、楽しみでもあったはず。子供達は踊りながら、歌いながら、そして笑いの中で、喜びに溢れて学べきものなのに、今の子供達は知る事の楽しさと、その喜び無くしてしまった。

あの科学者としての目も、詩人としての感性も失われ、その目は輝きを失った。何の喜びも感動もなく、死んだ無機的な知識だけを機械的に詰め込まれ、自分自身の未来と運命をを懸けた、日々の成績と受験競争に追いまくられる。

実に哀れな事だ。その結果として残ったのが、あの幼い日の、あの活力と創造力と感動と喜びと純粋さに満ちた、あの魂は摩滅され失われた。子供達の心も学校も教育も荒廃し、大きな社会問題にもなった学校での悲惨な「いじめ」が起った。

この問題に見られる悲惨さおぞましさは、私達自身の心の悲惨さ、おぞましさで有る事を知らねばならない。私達自身の心の荒廃を、子供達が鏡のように写しだしたものに過ぎないからだ。

その私達の心の荒廃は、自分本位で無気力で無感動で無責任な、いわゆる三無主義の個性と抑揚の無い、無機的な青小年達の群れと人としての基本的な約束さえも無視し自分本位な行動をする一握りの人間と、限りなく廃墟に近づく人々の心と文明を残す事になったのだ。

 

 

宇宙と生命の進化も教育と哲学も宗教も、分離され独立して存在する事は出来ない。全ての学問と哲学と宗教とは一つの物であり、それらは存在の一つの面を表現しているに過ぎないものだ。

それらは宇宙と生命と精神が生き存在しているゆえに存在するものである。あたり前の事だが、どれ一つ欠けても存在する意味は無いし存在する事も出来ない。

その存在を表現し全ての人々がそれを理解し行動する、そして存在し生き続ける為の、科学であり哲学であり宗教でなくてはならない。それら教える事が教育の何たるかである。それを探し求めるのが、科学であり哲学でありその他の様々な学問なのだ。そしてそれを生きる事が人の生であり宗教なのです。

これらは本来一つのものであり、それらを別々に分離する事は出来ない。それを無理に分離するならそれは、それの持つ本来の意味を失い、不自然な状態になり死んだ知識そして学問になる。

現在の教育やその他の社会に起きつつある様々な問題の源には、分離する事が出来ない問題を分離して扱うところから生じる問題である。そしてそれらの問題を個々別々にその問題をとらえ解決する事は出来ない。それを解決するためには宇宙も生命も哲学も宗教も学問も教育も存在の一つの断面であり、デカルト以来の合理主義そして還元主義的な視点を越えて、その全体像を認識する包括的な視点と、その取り組みが必要となって来ている。

現在の文明における大きな特色の一つは、数えきれないほどに細分化された様々な専門分野と、それらの集合体としての巨大な組織であり。それぞれの専門家は自分の狭い専門分野に閉じ籠もり、自分の立場からそれぞれ勝手な事を言うだけで、全体としての認識と行動に欠けている。

そのため現在の様な包括的な取り組みが必要になるような、様々な問題が起ったとき有効な対応策を採る事が出来ない。もしこのまま時と世間の大勢に流され、包括的な対応策を採る事が出来ないとしたら人類とその文明と、この地球の生命は破滅へと向かうことは、避ける事が出来ない。

現在の様な人類とその文明のその存在自体が、不自然な出来事であるからである。不自然な生命も文明も、消滅する事は避けがたい。

生命の存在の意味は生き続ける事にある。それが現在の文明の様に死に向かっているとしたら、人類とその文明のその在り方の、根本の部分に誤りがある。

 

 

先進各国と日本における社会と教育の混乱は、西洋社会に誕生した現在の教育制度そのものの不完全さによって、人々の精神を混乱させ社会的な混乱を招く事になったのである。現代の西洋文明の発端となったのは、ガリレオやベーコンがその基礎を築きデカルトとニュートンによって完成された、還元主義や西洋合理主義思想によって為されたのである。それによって中世迄には存在した神への信頼が失われ、それ迄の自然を大事にする価値観が崩壊してしまった。

そして個人主義的な価値観、悪く言うなら神をも恐れぬ快楽主義そして物質至上主義で自己中心的な価値観が、世界を覆い現在の絢爛たる科学技術文明を生み出し、その文明は世界の全ての人類を支配してしまう事になったのだった。

しかし西洋に誕生し壮大な文明を築き挙げる原動力となった、その還元主義的で合理主義的なその思想もアインシュタインの相対性理論やハイゼルベルクの量子力学によってその思想が絶対的な物ではないことが証明れ、全地球的な規模でそのパラダイムの転換が再び起ろうとしている。

 

ヨーロッパ諸国の教育制度は、その還元主義的で合理主義的な価値観を元に創られたものであり、強大なヨーロッパ列強に互してゆく必要から、百年前その不完全な教育制度を、そのまま我国に取り入れる事になった。

しかしその教育制度は旧来の価値観の元に創られ日本に取り入れられた教育制度であるがその価値観が完全なものでないからには、その教育制度も完全なものではない。

それに戦後における上辺だけの民主主義教育と受験競争の歪が加わり、学校や家庭に暴力や陰惨ないじめそして生徒の創造力の欠虚等の我国の教育上の混乱となって表面化したものである。

我国の教育制度の手本となった欧米先進国でも、教育における混乱が様々な形で表面化している。また学校の荒廃は我国の想像を越えるものがあり、武器の持ち込みや暴力や麻薬が学生の間に日常化するほどに浸透している。

また欧米に於いては生徒の学力低下が顕著に現れている。我国の常識では考えられない事だが、世界の最先進国であるアメリカに十数%の文盲がおり、その為にそれらの人々は満足な仕事に就く事も出来ない。特に黒人やヒスパニック系等のマイノリティの人々にその傾向が強く、それが麻薬等の様々な犯罪や社会不安の温床ともなっているのです。

学生の学力の低下は労働力の質の低化となって表れ、それは産業の生産物の品質が低化し、それに伴って様々な産業分野における、競争力の低化となって表面化している。

それによって外国との競争に敗退し鉄鋼業や機械や自動車産業や電子機器産業等の分野の衰退が起り、それに伴って失業が増大している。

それがまた社会不安を引き起こす事になり、犯罪の多発によって極度に治安が悪化する悪循環に陥っており。ニューヨークやロスァンゼルス等の大都市では、昼間でもそこを通行するのは危険な場所が多数あり、それらの場所で特に文盲率が高い事が知られている。現在の世界に起きつつある、教育その他の様々な混乱と人々の心の荒廃は、人間の誤った価値観と、存在の本質についての混乱と誤りから来るもの、それについての無知から来るものとも言える。

私達人類に課せられた緊急の課題は、現在の人間が持つ価値観を正し、本来の価値観を取り戻す事にある。これらの事を解決するためには教育制度と、それを取巻く社会制度の根本的な改革が必要になるだろう。

 

 

西洋の上純だけを真似た教育では、真に創造的な人間は生み出す事は出来ない。これからも我国では、本当に世界に貢献する一流の人間は生まれないだろう。民族を導く真の指導者は過去にも殆ど存在しなかったし、これからも生まれる事は無いだろう。

指導者に恵まれない我国は、二流三流の人間の集団によって営まれて来たのだが、過去の底の浅い二流三流のエリートどもの犯した過ちは、我々が忘れてしまっても、諸外国の人々は忘れる事は無い。

韓国でも中国でもフィリィピンでもその他の国に於いても、繰り返し繰り返し、様々な形の反日的な教育が行われている事を知るべきだ。一度失った信頼を取り戻すのは極めて難しい。我々の子孫は、これから数百年もしかしたら千年以上に渡って、過去の戦争の十字架を背負い、世界の人々から疎まれ軽蔑され続けるだろう。

それから逃げる事など出来ない。我々日本人の全てがその事を深く認識する必要がある。私達は人間としての心の在り方とその理想を持たず、それを子供達に教える事もしていない。ただ神をも恐れぬ自分本位な考え方と、功利主義的で金さえ有れば何でも出来ると考える。

そして真に心の豊かさと純粋さと深さを持つ人は少ない。日本の最高学府の卒業生さえも知識は持っていても、その知識の中でしか物事を考える事が出来ず、真の意味の教養と価値観を持つ人は少ない。そして自己中心的で他人と他の生命全体を真に思い遣る事もない。

一人一人の人間は心の繋がりを失い孤独になり、その絶え間無く襲う虚無感と無力感から、その心は陰欝に沈んでゆく。人々は経済的な豊かさを得る事が出来ても、その心は満たされず、より惨めで貧困になってきた。その心の渇きはどれだけ賢くて知識が豊かでも、また名誉と富を得ても癒される事は無い。私達が求め最高の価値を置く名誉も富も知識も狡猾さも、真の意味での価値は無い事を知るべきだ。その心の渇きを癒すのは純粋な思いで繋がれた人々の繋がりだ。

それは家族に限らず宗教などの様々な団体と言うこともある。それは世界に存在する全ての団体についても、不十分ながらも言えることだ。人々が徒党を組むのは、その渇きを癒すものを持っているからでもある。

真の価値観と心の豊かさと高い意識を持ち人々と繋がりを持つなら、それは個人を変革させるだけでなく、社会全体を大きく変える事にもなるだろう。

欧米において高度な社会福祉社会の実現させる事が出来たのは、一人一人の人間に豊かな心を育む、価値観と意識の高さがあったからなのです。

現在の日本の社会的な貧困さは、一人一人の心の貧困さを表すものなのです。社会的な意識は極めて低くそして貧困、真の意味の価値観も持たず、心の豊かさもない。信じるに足りる価値観と人間としての心の豊かさ無くして、この世に残る業績を残せようか。真に豊かな社会を実現出来るだろうか。何処の国の人々が我々を心から受け入れて呉れるだろうか。

我々が過去に大きく道を踏み外したのは、これらの人間として最も大事な物を持っていなかったから、そのような結果になったのだ。現在も持っていないから世界の人々から疎まれ続けるのだ。それを跳ね除けて生きるには、人間としての真の心の在り方と高い理想が必要になる。そして強烈な個性とアイデンティティを必要とするだろう。

次の世代の子供達に教えねばならないのは、単なる読み書き計数だけではなく、真の意味の価値観と、自己と民族と人間そのもののアイデンティティなのだという事。

ユダヤの人々は我々の想像を越える様々な迫害の中で、その個性とアイデンティティを失わず数千年に渡って生き延びて来た。私達はユダヤ人に学べきかも知れない。教育に於いてもそれは言えるだろう。

彼等は日本で言われているような教育という概念ではなく、奉仕と言うほうにより近い教育の概念を持っている。

現在の教育制度は子供達に死んだ知識しか与えず、子供達が生れながらにして持っていた可能性を押し殺し続けている。人はただ子供を生み育て、あるいはただ仕事をするために生まれたのではない。それなのに人を分離し区分けをする為の、そして仕事に必要な知識と、出世をし金を儲ける為の知識にしか価値を与えない。計数可能な能力にしか価値を与えようとしない。その為に必要とする教育しか為されていない。それしか伸ばそうとされていない。我国の学齢期の教育では人間性そのものを研き評価する事はしていない。今、子供達が現在の教師と教育制度から受けている教育は、人間の生に於いてはガラクタに過ぎないものだ。

人間はそれより悠かに可能性を持ち、悠かに精神的に豊かに幸福に暮らして行く能力を持っているのに、何一つその花を開かす事が出来ない。人間的な意味の教育なら、私達現代人はアフリカのイトゥリの森に住む、ピグミー族の人々に悠かに及ばない。そして彼らは成人に達した人間の全てが、現在文明の最高学府の医学生にも匹敵する、数千種類にものぼる様々な食用や薬草等の動植物についての、知識を持っている事が知られている。

またその踊りと音楽的な感性は現在社会の芸術家の域に達している。そして真の意味の人間としての完成度は、一般的な現代人を上回っており、私達より精神的にも肉体的にも悠かに健康で豊かに幸福に暮らしている。それは求道者が求める悟りとも言えるものだ。

彼らは何の苦もなく努力もなく、楽々とその域に到達する事が出来る。そしてその悟りさえ意識しない。自然と一体になった人間が作り出す雰囲気から受ける、教育的な刺激は現在社会の人工的な刺激を悠かに上回っている。

現代人が聡明で知識が豊富などと言うのは文明人の手前勝手な幻想でしかない。そして私達の求める金や地位そして名誉あるいは狡猾さや知識等は不自然で、この地球の生命と人類全体にとっては極めて危険な物でしかない。

文明人は知識を求める事で逆に愚かになり、富と幸福を求めてあがき、自然と自分自身の心を荒廃させ貧しく不幸になった。

数万年前から現代まで何もしなかった彼等が、悠かに人間的でそして豊かに幸福に暮らしている。私達文明人と言われる人々のしている事に、根本的な誤りであるのは明らかである。文明人という認識自体にも誤りがある、我々は決して文明人ではない。何を以て文明人あるいは野蛮人あるいは未開人と言うのだろうか。

生命全体として生き続けるには我々が未開人と呼ぶ人々の方が、悠かに自然で無理の無い合理的な生き方をしている。しかしもう人類は過去のあのエデンの園に帰る事は出来ない。私達人間の体と心を生み育てたエデンに帰る事は出来ない。人類は新しい生き方を見付けるしか生きる道はない。

私達を教育しそして頭脳を配線しプログラムするのに、外部における環境と自然の状態が大きな比重を占め、意識の存在と在り方に大きな影響を与えている。という私の信念は此処でも言える事なのです。

現在人類は頭脳が小さくなる傾向が有るがそれは、人々の心の荒廃とそれに繋がる自然の荒廃によって、自然はその複雑さと豊かさを失い単調になり、それに伴って人間の心がそして頭脳そのものが、その豊かさを失いつつある。人間の頭が小さくなるのは、頭脳を使わない事による退化現象から来るものと私は思う。

この地球上に住む全ての生命は孤立しては存在し得ず、相互に影響を与え合い、その存在と形態は他の生命によって大きな影響を受けるのです。私達人間が人間としての形態と心の健康を維持するためには、豊かな自然は必要不可欠なものなのです。



私達の心は

あの森の樹木によって、

その眩ゆいばかりに輝く若葉によって、

そして夏の燃えるような緑と、秋の山を覆う幻想的なまでの紅葉と、

せせらぎに流れる一葉の紅葉によって

そして冬の雪と岩と樹木の織り成す深い陰影と静寂によって、

その心は豊かに育まれるのです。

早朝の草花と音もなく滴る宝石のような朝露によって、

そして鳴き交わす小鳥たちの囀りと、

頬を撫でる微風のその甘く冷たい感触によって、

その心は深く豊かに育まれるのです。

今此処に私達のこの意識と心が存在するなら、

この世に存在するものの全てを見て、

そして聞いてあげるべきです。

五感の全てを使ってそれを味わうべきです。

持てるものの全てを使ってそれを認識すべきです。

意識されるもの全てに注意深く有るべきです。

それは私の最高の教師でもあり、

そして究極の旅へ誘う導師だからです。

それが私の意識と心を生み育てた、

真の親でもあるからです。

そしてそれらの全てが、

私でも有るからです。

 

 

短い人で九年間、長い人で十六年以上もの長い期間かけて教育をしながら、私達は子供達に何を教えているのだろう。私達が十数年もの長い間かかって学んで来たものの無意味さには、りつ然とするものがある。私達はあれだけの年月をかけて、何を学んで来たのだろか。確かに字を読み書きし計算を出来る様になったし、様々な知識は得る事は出来た。

しかし私は私がなぜにこの世に存在するのか、私は誰なのか、を教えてくれる人はいなかった。私は愛について、そして自己について、生命について何も知らないし、教えられる事もなかった。これが人間として、学ばなければならない、最も大事な事である事を、言ってくれる人もいなかった。

これこそが私達人間が学ばなければならない、最も大事な事であり、次の世代の子供達に教えねば為らない、最も大事な事ではないのか。

私達の教わった教育は、そして今、子供達に教えている事は、自然を破壊し自分自身とこの地球の生命を滅ぼすための、教育しか為されていないのが実状ではないか。

六章その2に続きます。

 



 

 


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